|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 李 : [り, すもも] 【名詞】 1. (Japanese) plum 2. prune 3. prunus salicina ・ 寿 : [ことぶき] 【名詞】 1. congratulations! 2. long life! ・ 漢 : [かん] (suf) man (negative nuance)
李寿(り じゅ)は、五胡十六国成漢の第4代皇帝。 == 生涯 == 李驤〔李寿によって、献帝として追号された。〕(武帝の従兄弟)の子として生まれた。武帝に才能を認められて前将軍・督巴西軍事となり、征東将軍に転じた。玉衡18年(328年)に父の李驤が死去すると、大将軍・大都督・侍中となり、扶風公に封ぜられた。玉衡23年(333年)には軍を率いて寧州を平定し、建寧王に進んだ。 玉衡24年(334年)に武帝が崩御すると輔政を託された。従子李期が即位すると、李寿は漢王に改封され、梁州五郡を食邑とし、梁州刺史に任ぜられた。一族の李越(李期の兄)やその武将景騫らと敵対し、弟の李攸を殺害されたため、玉恒3年(337年)に李寿は城から成都に進軍し、李期に迫って李越・景騫らを殺させた。任太后(武帝の后)の令と偽って李期を廃位して別宮に幽閉した。漢興元年(338年)に皇帝として即位し、国号を成から漢に改めた。 王・王広を後趙の石虎のもとに派遣して、天下を二分しようと約した。しかし、李奕を柯郡に派遣して攻めさせたが、落とすことができなかった。また、石虎の刑法が厳格であるのを聞いて模倣し、小さな咎で殺罰をふるわせた。さらにの宮殿に憧れて、成都の宮殿を拡張し、城に水を引かせた。民衆は使役に疲れて、巷は怨嗟にあふれた。昭文帝は蔡興や李嶷らの諫言を受けたが、いずれも殺した。 昭文帝は病が重くなり、蔡興や李嶷の祟りと噂された。漢興6年(343年)に44歳で崩御した。 長男の李勢が後を継いだ。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「李寿 (成漢)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|